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 中将棋の進化について(2)       記 三島のトド

この内容は、ギャンブリング&ゲーミング学会誌第2号(2005.9)に発表したものに基づいているが、一部修正を加えた。

2、中将棋の起源についての従来の考え方
 日本に渡来した将棋に関する平安時代の文献は二中歴・台記とされている。「将棋」という名称が記載されているものとしては、他に新猿楽記(1058-1065)・長秋記(1129年の項)等が報告されている。ニ中歴(13世紀初めに成立とされる)で記述されている将棋は平安将棋及び平安大将棋であり(「将棋」、「大将棋」と記載)、台記の康治4年(1142年)の項では平安大将棋のみが記載されている(「大将棋」と記載)。現行大将棋および中将棋に関する文献は更に遅れ、室町時代から江戸時代初期の異制庭訓往来、象戯六種之図式等になる(増川宏一 将棋の駒はなぜ40枚か 集英社新書、木村義徳 持駒使用の謎 等)。また、中将棋が実際に指されていたことを示すはっきりした文献的証拠は、康富記の1444年閏6月の記事であり、その後、16世紀になって、公家の間で流行したといわれている(増川宏一 将棋の駒はなぜ40枚か 集英社新書)。
 考古学的出土品として将棋駒が出土したケースがある。平城京長屋王邸遺跡から出土した木札状品については、まだ駒かどうか決定されていないようである。また、兵庫県日高遺跡から歩兵の駒が出土しており、西暦1095年ころと推定されている。更に、1058年の紀年を持つ興福寺駒16点が出土しており、王将・金将・銀将・桂馬・歩兵の各種の駒が見られる。また、同じ興福寺旧境内の井戸状遺構から出土した習書木簡には、酔像(酔象と同じ種類と考えられる。)と書かれたところが見受けられる。この酔象のように、現行将棋にない駒としては、朝倉一乗谷遺跡から酔象が、焼津小川城遺跡から盲虎が、鎌倉八幡宮境内から鳳凰が出土している。これらは、鎌倉末期(鳳凰)から16世紀のものと見られている。(増川宏一 将棋I-III 法政大学出版局、将棋の起源 平凡社、将棋の駒はなぜ40枚か 集英社新書、木村義徳 持駒使用の謎、 日本将棋連盟、大内延介 将棋の来た道 めこん社、清水康二 木簡研究 6号 等)
 古い文献まで調査していないが、私の目にとまった限りでは、初期には小(平安)将棋-中将棋-大将棋という進化過程を取っている考え方が多かった(増川宏一 将棋I 法政大学出版局 等)。これは、「盤が小さいものから大きいものに次第に進化してゆく」という考え方に沿ったものであり、西洋のビッグチェスの進化とも整合性がある。但し、中将棋という名称は、小将棋と大将棋があって初めて「中」という名称が可能であり、大将棋のほうが先行したのではないかと言う意見もあった。その後、増川をはじめとした将棋史の研究が進んだが、日本渡来後の進化過程についてはそれほど進展が見られなかった。
 1995年に、佐伯によって普通唱導集(1297-1302年)という文献が発掘され、その中に小将棋と大将棋が記載されていること、大将棋の駒として慎猪という駒が記載されているので現行大将棋と考えられること の2点により、この時点で「現行大将棋は成立していたが中将棋は成立していない」と考えられ、平安大将棋--現行大将棋-中将棋という進化過程が提案された。この意見は、上述した「中」は小と大があって初めて中になりうる という考え方にも合致しており、その後、ほとんどの文献がこの考え方を受け入れている。(佐伯真一 遊戯史研究 5号、日本文化としての将棋(尾本恵市編) 三元社、増川宏一 将棋の駒はなぜ40枚か 集英社新書、将棋の起源 平凡社、木村義徳 持駒使用の謎 日本将棋連盟 等)
(続く)
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