中将棋の進化について(5) 三島のトド
この内容は、ギャンブリング&ゲーミング学会誌第2号(2005.9)に発表したものに基づいているが、一部修正を加えた。
5、大将棋及びその他の将棋の成駒について
もう一方の、①小駒はすべて金将に成るという方式は、平安将棋あるいは平安大将棋の系統から来たものと考えている。但し、平安将棋・平安大将棋ともに成駒が文献的に知られておらず、根拠に欠ける点があることは否定できない。
また、現行大将棋の成駒についても、不明な点が残る。象戯六種之図式では、大将棋の成駒として、「中象戯に同じ、中象戯になき駒の成やうは大々将棋に准ずべし」という記載があり、現在では、この方式が取られることが多い。しかし、「象戯図式」・「古今将棋図彙」・「象棋纂図部類抄」・「諸象戯図式」等では、酔象(太子に成る)、麒麟(獅子に成る)、鳳凰(奔王に成る)の3種しか成れないと記載されている。これらの江戸期資料は、互いに引用を重ねたものも多く、必ずしも、文献数が多いから正しいということにはならないが、無視することは出来ない。少なくとも、大部分の駒が成らない将棋があったことを想定させる。もし、「象戯図式」・「古今将棋図彙」・「象棋纂図部類抄」・「諸象戯図式」の記載をそのまま認めるとすると、江戸期における130枚制大将棋では、マークルックや中国将棋に見られる、歩兵の成りもなかったことになる。
しかし、興福寺出土駒には、歩兵の裏に金の崩し字を書いたものがあり、歩兵が成ったことは確かなようである。更に、興福寺出土駒の中には、1枚桂馬があり、その裏には金(也?)と書かれていることから、桂馬等の小駒も成っていたことが明らかである(清水康二 木簡研究 6号)。また、同時代人と考えられる藤原行成筆とされる「麒麟抄」に将棋駒の書き方として、金の字は草書で書くべきとあり、小駒の成駒として金将があった事を示している(増川宏一 将棋I 法政大学出版局)。これらを踏まえれば、11世紀の将棋(平安将棋の可能性が高い)の段階で、少なくとも小駒は金将に成っていたと考えられる。平安将棋の段階で小駒が金将に成っていたとすると、この系統が現行将棋につながってきたという説に、更に根拠を加えることになる。
その一方で、大将棋の中に小駒がほとんど成らないものがあったことをどのように考えるべきであろうか。進化の過程で、「一度成ることが可能になった小駒が成れないようになることがなかった」と仮定する。この仮定は、各種の将棋が、引き分けになりやすい初期の将棋を改良する方向に進化してきた という考え方に基づくものである。この仮定に従うと、現行大将棋に至るまでの間に、①(歩兵以外の)小駒が成らないもの、②一部の小駒だけが成ることが出来るもの、③すべての小駒が成ることが出来るもの という段階を経てきたことになる。そして、②と③の間で、小駒の成り方の方法が選択されたと考えられる。
平安将棋・平安大将棋以降に、幾つもの大型将棋が創作・試行されたと考えられ、次第に改良・淘汰されて、現行大将棋や中将棋になったと考えられる。その初期のルールとして、②にあたる、「3種の駒だけが成ることが出来る」という記載が残ったのではないだろうか。この時点でも、歩兵の成りは存在していた可能性が高く、この記載のみを無条件で信じるわけには行かない。その後、中将棋で使用されていた、③にあたる、「種類の異なる小駒が成ると異なった成駒になる」が採用され、更に、中将棋にない駒に対しては、平安将棋の系統で使用されていた「小駒が成ると金将に成る」が採用されて、現行大将棋が成立したと考えている。
(続く)
5、大将棋及びその他の将棋の成駒について
もう一方の、①小駒はすべて金将に成るという方式は、平安将棋あるいは平安大将棋の系統から来たものと考えている。但し、平安将棋・平安大将棋ともに成駒が文献的に知られておらず、根拠に欠ける点があることは否定できない。
また、現行大将棋の成駒についても、不明な点が残る。象戯六種之図式では、大将棋の成駒として、「中象戯に同じ、中象戯になき駒の成やうは大々将棋に准ずべし」という記載があり、現在では、この方式が取られることが多い。しかし、「象戯図式」・「古今将棋図彙」・「象棋纂図部類抄」・「諸象戯図式」等では、酔象(太子に成る)、麒麟(獅子に成る)、鳳凰(奔王に成る)の3種しか成れないと記載されている。これらの江戸期資料は、互いに引用を重ねたものも多く、必ずしも、文献数が多いから正しいということにはならないが、無視することは出来ない。少なくとも、大部分の駒が成らない将棋があったことを想定させる。もし、「象戯図式」・「古今将棋図彙」・「象棋纂図部類抄」・「諸象戯図式」の記載をそのまま認めるとすると、江戸期における130枚制大将棋では、マークルックや中国将棋に見られる、歩兵の成りもなかったことになる。
しかし、興福寺出土駒には、歩兵の裏に金の崩し字を書いたものがあり、歩兵が成ったことは確かなようである。更に、興福寺出土駒の中には、1枚桂馬があり、その裏には金(也?)と書かれていることから、桂馬等の小駒も成っていたことが明らかである(清水康二 木簡研究 6号)。また、同時代人と考えられる藤原行成筆とされる「麒麟抄」に将棋駒の書き方として、金の字は草書で書くべきとあり、小駒の成駒として金将があった事を示している(増川宏一 将棋I 法政大学出版局)。これらを踏まえれば、11世紀の将棋(平安将棋の可能性が高い)の段階で、少なくとも小駒は金将に成っていたと考えられる。平安将棋の段階で小駒が金将に成っていたとすると、この系統が現行将棋につながってきたという説に、更に根拠を加えることになる。
その一方で、大将棋の中に小駒がほとんど成らないものがあったことをどのように考えるべきであろうか。進化の過程で、「一度成ることが可能になった小駒が成れないようになることがなかった」と仮定する。この仮定は、各種の将棋が、引き分けになりやすい初期の将棋を改良する方向に進化してきた という考え方に基づくものである。この仮定に従うと、現行大将棋に至るまでの間に、①(歩兵以外の)小駒が成らないもの、②一部の小駒だけが成ることが出来るもの、③すべての小駒が成ることが出来るもの という段階を経てきたことになる。そして、②と③の間で、小駒の成り方の方法が選択されたと考えられる。
平安将棋・平安大将棋以降に、幾つもの大型将棋が創作・試行されたと考えられ、次第に改良・淘汰されて、現行大将棋や中将棋になったと考えられる。その初期のルールとして、②にあたる、「3種の駒だけが成ることが出来る」という記載が残ったのではないだろうか。この時点でも、歩兵の成りは存在していた可能性が高く、この記載のみを無条件で信じるわけには行かない。その後、中将棋で使用されていた、③にあたる、「種類の異なる小駒が成ると異なった成駒になる」が採用され、更に、中将棋にない駒に対しては、平安将棋の系統で使用されていた「小駒が成ると金将に成る」が採用されて、現行大将棋が成立したと考えている。
(続く)
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